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2007.02.01

S3^の眼差し

国立科学博物館で開催中の大英博物館「ミイラと古代エジプト展」で、ウジャトを見てきた。ウジャトとはエジプト神話に登場する隼の神「ホルス」の目の事で、真実を見抜く目とも言われている。ウジャトは護符として人気があったようでミイラの副葬品としてよく出土する。

地中海を隔てたトルコではナザールボンジュという護符があり、これは今でもよく土産物屋の店頭に並んでいる。人の恨み嫉みを買うとその邪悪な視線によって傷つけられると考えたトルコでは、ギリシア神話のメドゥーサが守神と解釈され、その邪眼が睨み返すことで災難から逃れられるとされた。


見つめる、眺める、矯めつ眇めつ、左見右見(とみこうみ)、覗く、窺う、チラ見する、等々と、見ることに関する言葉は新旧共に多い。メラビアンの法則を持ち出すまでもなく、私達の知覚の大部分は視覚に頼っているのだ。


しかし、この「見る」という行為は意外な程頓着されていない。


目力(めぢから)という言葉が流行ったが、メイクアップによる目の強調よりも、本来その眼差しの強さが眼力の本質である。ではその力強い眼差しは何を生み出すのだろうか?

目に見えるモノは何か?共通点は?相違点は?何を連想するか?正反対のモノは?・・・・目に見えないモノは何か?コンテクストに含まれる?存在に含まれる?・・・

いずれ詳細を書く事になると思うが、デザインの要諦は動的複雑さを如何に「活きジメ」にするかである。その為には徹底的に「見る」しかなく、誤解を畏れず言うならば凡そ殆どの表現行為と呼ばれるモノは「見る」ことの付帯行為である。対象に存在する「何か」は、眼差しを送る者に見つけられるのを心待ちにしているのだ。型を見抜くのも形を与えるのも、見ること、眼差しを送り続けること抜きには為し得ないのだ。


そして「見られる」という行為は更に頓着されない。


マサチューセッツ工科大教授のピーター・センゲの著書「学習する組織 5つの能力」に、相互の尊重と開放性を訴える序段でサハラ砂漠以南に住む部族の日常挨拶の紹介がある。

「サウボナ」(=「私にはあなたが見えます」)
「シコナ」 (=「私はここにいます」)

相手から見えることによって、初めて自分は存在する。順番は決して逆にならない。 これは「ウブントゥ」の精神といわれ、ズールー語の諺「ウムントゥ ングムントゥ ナガバントゥ」=(「人は、他の人々がいるおかげで人間になる」に由来する精神の枠組みだそうである。つまり、人は他者の眼差しによってデザインされているということなのだ。


私達S3^のメンバー個人がホルスの目を持っている訳ではない。
しかし、私達のダイアローグという集合知性の中にホルスの目は顕われる。

posted by idr at 20:38

Profile

和田晃一
株式会社エスキューブド
執行役員
1970生まれ
1994NTT入社。附帯事業部門を中心に勤務
2004教育研修会社grownaviを設立。企業研修の企画設計、講師などを務める
2006エスキューブドに参加。コミットしている担当業務は「読書」