2008.01.01
色は述語的に
■主客はどちらでも
紅白歌合戦を見た。
やっぱり日本の大晦日はこれと「行く年来る年」を見ないことには締めくくれない。
紅白は最後の四曲が阿久悠の作品で締められる。しかしその前に流れた流行歌は全くと言っていいほど面白味のない、心に響かない歌ばかりであった。古い歌ほど出来が良いというのは一体どういう事だろうか?
歌唱力の無い人達がマイクを握って電波に歌声を乗せるのは犯罪に近い行為だと思うが、楽曲のつまらなさ、とりわけ詞のつまらなさに辟易した。誰の歌を聴いても、男女の一番いの恋愛しか謳っていないのだ。しかも美しさの欠片もないような言葉で、身近な狭い世界を絶叫している。現実は厳しく、そんなに楽しいことばかりではないのだから、歌くらい自由でもいいんじゃないかな?と思う。恋愛(相聞)は詩歌の伝統的に強い分野なので、恋歌が多いのは仕方がないと思うが、せめて一即多、多即一な物語を聴きたいものである。
テレビで流れる岩崎広実の「聖母達のララバイ」を聴いていて思ったのだが、複数の女性達がたくさんの男達を愛で包み込むという物語になっている。こんな歌は今は決して受け入れられないんだろうと思う。過去には、他にも複数の男性を愛する女の歌として、ジュディ・オングの「魅せられて」がある。「好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る」というのだから「私の中でお眠りなさい」と言われれば、儘よ、となる。
一方、記憶を遡っても、男が複数の女性を愛すると言うことが歌詞にあるのは細川たかしの「北酒場」くらいである。「絡めた指が定めのように心許す」というのだから、羨ましい話である。因みに僕は、この歌の主人公のモデルは源氏物語の光源氏であろうと密かに思っている。
日本文学のお家芸は「色好み」であった。この恋愛感情という優れて述語的な感覚を色彩に求めれば、ざまざまな色合いの絵が描けるのではないだろうか?主語を省略する日本語は述語による色彩表現が絵画的にできて、だから「色好み」な物語を扱うようになり、好色な主人公が誕生する。つまり日本人の男女を問わない好色は、日本語が創り出した優れて日本的な行為である、と、僕は推測する。
「はかない」と言う言葉は「はかどる」の語幹「捗」が共通語源である。儚く脆い関係性に注目して、その色合いを今年は愛でてみたいと思う。
posted by idr at 15:59
