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2009.12.16

どうしたらうまくなるの?

■先達はあらま欲しき事なれど


街はクリスマスムード一色。
日本の年の瀬の風物詩はベートーベンの第九だが、クリスマスといえばバレエの「くるみ割り人形」を忘れてはならない。

レニングラード国立バレエは毎年「引っ越し公演」と呼ばれる程の規模で年末年始の日本公演を行っている。今年もチャイコフスキーの三大バレエを演目に入れて万全の様子である。以前僕が観たのは「眠りの森の美女」。重力を感じさせないこの跳躍とは一体何だ?と思う間もなく、その跳躍がまるで当然のように繰り広げられる群舞に圧倒される。

「くるみ割り人形」は2年前にウクライナ国立バレエ(キエフ・バレエ)で、エレーナ・フィリピエワがクララ役を演じたのを観たが、こちらもその空気のような跳躍と少女期の終わりを表現するしなやかな動きに溜息が漏れる。

そして何と言っても、劇場付の楽団が素晴らしい。レニングラード国立歌劇場管弦楽団もウクライナ国立歌劇場管弦楽団も、狭いオーケストラピットの中から出しているとは思えない完成度の高い演奏を聴かせてくれる。

楽器や武道、舞踏、スポーツはもとより鉄棒の逆上がり、補助輪無しの自転車乗りに至るまで、ある時を境に急にできるようになる。そしてこれに弾みが付くと益々上達する。できた後は、なぜ今までできなかったのかを説明できなくなる。

一方で、このような技や芸にはスランプという状態もある。
どんなに練習しても上手く行かなくなったり、やればやるほど成果が乏しくなってくるようなことになると、続ける事が苦痛になってくる。しかし、一流といわれる人の殆どはこのスランプを乗り越えて、急激な上達をするのである。

思い返してみると、子供の頃の習い事というのは、「何かの弾みにできるようになる」「どれだけやっても上手く行かないこともある」しかし、「それを乗り越えると別の世界が拡がっている」という体験をする為のように思えてくる。

子供に習わせた剣道で生計を立てる魂胆の親は少ないだろうし、一流のピアニストを本気で育てようとするなら小さな町の先生では少々心許ない。それでもどんな辺鄙な場所にも珠算塾や書道教室はあり、子供達は理由を説明されることなく習い事をしてきたことを考え合わせると、恐らく修行のもつ理不尽さを体験する場の提供が親の最大の眼目であったのだ。

修行というのは理不尽な何かを含んでいるものである。練習というマイルドな表現になった今でもこれは変わらず、課外活動(所謂部活)などでも

「どうやったらサッカーが上手くなりますか?」
「練習することだ」
「どれくらい練習すればベッカムみたいにできますか?」
「たくさん練習することだ」
「たくさんってどれくらいですか?」
「・・・取り敢えずグランド100周走ってこい」

こんな対話が成り立てばまだマシな方で、因果の説明できない修行メニューを無理矢理やらされた思い出のある人は多いだろう。

しかし、どれだけやったらどれだけ上手くなるのかは、今以て説明することは不可能である。上記のようなグランド100周は「しごき」「体罰」とされ教育現場からは排除され、指導者には練習効果の説明が求められる。授業においても学習と成績の関係を説明しろと、教師が親に迫られることはざらだそうである。つまりはこういうことだ。「何時間勉強したらあの大学に合格するのか説明してください」

これは学校だけではなく社会人も同様であり、「やったことがないから無理です」という説明が横行し「兎に角やってみろ」という上司はパワハラで訴えられる。どうして良いかわからない部下は鬱々として「こんな会社辞めます」、そもそも後の責任の取り方を知らない上司は「まったく近頃の若いモンは」と、組織は誰も望まない不幸な関係が連鎖することになる。


過去に行き過ぎた理不尽さとそれに伴う損失があったのも事実だろう。理不尽の必要性を理解していない者が正当性を装って振るうそれは嗜虐性を伴い、人の精神や肉体を蝕む。

しかし、理不尽さを排除できるほど私達の学問や技芸習得の仕組みが判っているわけでは無い。いつから、どのようにしてできるようになるのかは、わからないのである。理不尽であることを理由に修練を排除するのは、成長を否定する自滅的な行為とも言える。

付け加えるならば、こういった理不尽を扱う側にも相応の覚悟が必要であるということだ。職場で上司がやるならば、首を賭ける心構えくらいは必要であり、その真剣さが無ければ足許を見られる。そんな覚悟を持たない人がいくら理不尽さを強いようとしても、残念ながら上手く行くはずがない。

上司や教師に覚悟もなく、先輩にロールモデルも見当たらない、その嘆いている人が覚悟とモデルの破壊に荷担したことに気付いていない、まことに不遇な状態に組織はおかれている。しかし組織というものから理不尽さを伴う修行が消えたら、一体どこで学ぶのだろう?


ただ一つだけはっきりしていることは、練習も修行もしないで上手くなることは決してない、ということだ。

いつの間にかできるようになったとき、ああ、あの練習の成果がやっとでた、あの苦しい修行が報われたという感慨を覚えるが、こういった経験が貴重になりつつある。先日20代前半の複数の男性とこんな対話を交わす。

「イチローって何であんなに野球が上手いんだろうね」
「天才だからッスよ」
「えー?じゃ練習しなくても上手いのかな?」
「そーっすよ。ジブンは天才じゃないんでマジ無理ッス」

御存知の方も多いと思うが、3歳の頃から野球を始めたイチロー選手は小学生時代からプロ野球選手になることを目標に殆ど毎日欠かさず練習をしてこの夢を実現させている。

ロシアのバレリーナの重力を感じさせない跳躍を思い出す度に、その背後に隠された汗と涙と理不尽さを想像し、いつの間にかできるようになったときの、その喜びに少しでも心を重ねることができることを幸せに思う。

本当に価値ある表現は、技芸を磨いた末に発揮される。家庭、学校、習い事からこの理不尽な何かを受け止めて行くうちに「いつの間にかできた」経験が失われた今、企業組織は修行システムとしての道場機能を取り戻さなければならない。


posted by idr at 21:23

Profile

和田晃一
株式会社エスキューブド
執行役員
1970生まれ
1994NTT入社。附帯事業部門を中心に勤務
2004教育研修会社grownaviを設立。企業研修の企画設計、講師などを務める
2006エスキューブドに参加。コミットしている担当業務は「読書」